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那覇地方裁判所 昭和56年(ワ)213号 判決

原告

川田区

右代表者区長

中村清

右訴訟代理人弁護士

金城睦

金城清子

鈴木宣幸

当山尚幸

島袋勝也

被告

東村

右代表者村長

平良昇康

右指定代理人

久場兼政

金城紀昭

平良晨勇

那須誠也

石原淳子

須田啓之

石井昇

蔵田博国

主文

一  被告は、原告に対し、金二億一五三二万一五三六円及びこれに対する昭和五九年四月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告が、別紙第二物件目録記載の土地につき、共有の性質を有しない入会権を有することを確認する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告

主文と同旨

二  被告

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  仮執行免脱宣言の申立

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

(一) 原告

原告は、沖縄県国頭郡東村字川田に住所を有し、区民名簿に登録された者もしくは寄留届を受理された者をその構成員とし、区長をその代表者として、所定の運営規程に基づいて運営され、一定の財産を有する権利能力なき社団であるが、琉球王府時代の部落共同体である川田村をその前身とする。

(二) 被告

被告は、原告の所在地を行政区域内に持つ行政組織上の村であるが、大正一二年に久忘村から分村した。

2  入会権の成立

(一) 沖縄県における林野法制

(1) 琉球王府、旧藩時代

琉球王府時代の沖縄の山林は、〈1〉個人の私有地の性格を有する仕明山野、請地山野、〈2〉間切(琉球王府の末端の行政機関)・島(いくつかの村を含む伊江島、伊是名島などの一島)・村(部落)が管理、保護し、共同に使用収益する間切山野、村山野、〈3〉官有林である杣山に大別された。

杣山では、地元の間切、島、村が私費で総山当、山当などの役を置き、共同で管理、保護に当たり、琉球王府が山奉行所を置き、その管理、保護について村々に指示を与えるなどの監督をしていた。そして、間切、島、村は、毎年多大の夫役を負担して杣山に植林を行い、その代償として、許可を受けて無償で材木を伐採し、船材、建築材、砂糖樽板、製糖薪炭、家用薪炭等に利用していた。そして、琉球王府が木材を必要とする場合は、手形を発行して上納させ、その代価を間切、島、村の負担する貢租から差し引いた。

(2)明治時代以降

明治五年に琉球藩が置かれ、明治一二年四月にいわゆる琉球処分により琉球藩が廃止され、沖縄県が設置されたが、旧慣温存政策の下で、本土において実施された地租改正(明治六年)、土地官民有区分(明治八年)等の一連の土地制度の改革は行われず、町村制(明治三二年)も施行されず、民法(明治三一年)の不動産に関する規定の適用もなかった。

そして、沖縄における土地整理事業は、明治三二年に公布された沖縄県土地整理法(法律第五九号)により、明治三二年から明治三六年ころにかけて行われ、その結果、前記間切山野及び村山野は、それぞれ間切、村の所有と認められたが、杣山は、同法一八条によって、官有地とされた。

杣山が官有地に編入されたことにより、地元住民による乱伐が進み、山林が荒廃したことから、国は、官有林を整理して、国有林経営に必要な山林と、そうでない山林との存廃区分を明確にすることとし、明治三九年に沖縄県杣山特別処分規則(勅令第一九一号)を公布し、杣山のうち不要存置林については売り払うことができるようにした(以下「杣山処分」という。)。

その後、大正四年から昭和一一年にかけて、公有林野整理、部落有林野統一事業が行われ、部落有から町村有に統一された。

(二) 本件山林における入会権の成立

(1) 本件山林の歴史的経緯

別紙第一物件目録及び第二物件目録記載の土地(以下「本件山林」という。)は、琉球王府時代は杣山であり、川田村(当時)が中心となって管理、保護してきた。

そして、前記杣山処分の際(明治三九年ころ)に、川田村の住民が共同で年賦金を負担して本件山林の払下げを受けたが、前記公有林野整理、部落有林野統一事業によって、被告の所有となった。

その後、昭和三九年ころから、被告名義の入会林野は、農業用地として個人に安価で払い下げられるようになったが、原告の統制の及ぶ地域(以下「原告区域」という。)内の入会林野について払下げを受け得る者は原告区民に限られ、本件山林を除いて全て原告区民へ払い下げられた。本件山林も当初原告区民へ払い下げられる予定であったが、本件山林がダム用地になることとなり、将来において、原告住民の入会利用が事実上不可能となることが判明したので、右払下げは中止された。

(2) 入会慣行の存在

〈1〉 戦前

本件山林が属する山原地方では、入会山林の木材が、部落住民の建築資材、薪、薪炭となるほか、唯一の現金収入源として住民の生活を支えていた。そのため、部落住民が部落の山を守り育てるという意識が極めて強く、部落住民による厳重な監視体制がとられ、他部落の住民が入会山林に入ることは固く禁じられた。

原告は、本件山林を含む部落有の山林について、専任の山係を置き、山の監視、管理に当たらせるほか、月に何度かは、部落の有志が山を巡回して他部落の者の入山、盗材を監視し、盗材者には厳しい制裁が加えられた。

原告は、部落の山林を、禁伐区域と伐採区域とに区分した。禁伐区域での伐採は、区の許可がない限り、区民でも禁じられた。伐採区域においては、原告区民は、建築資材や薪炭として自家用に使用する場合は、何らの金を支払うこともなく、自由に樹木を伐採することができた。一方、伐採した材木を他に売却する場合は、原告の共同店が一括して販売に当たり、売却代金の約五パーセントを林産物税として原告が徴収し、原告は、その三割を被告に納入し、その余を原告の財源に充てた。

このように、部落の山の維持、管理は全て原告が当たり、被告が関与することは全くなかった。

〈2〉 戦後

原告は、戦後も戦前と同様に、本件山林を含む部落有の山林を管理し、入会利用した。

即ち、部落有の山林には、原告区民以外の者の入山は禁じられ、原告区民は、自家用の木材(建築資材用、薪、薪炭用)は自由に伐採し、何らの負担なく使用することができた。

薪、薪炭の売却は、昭和二三年に再建された共同店が全部取り扱い、原告区民は、共同店にこれらを持ち込んで現金を得、共同店は、これを他部落の住民や業者に約五パーセントの手数料(林産物税)を加えた額で売却し、右手数料を原告に納めた。

また、建築資材は、集荷場に集められたものを業者が買い取り、売却代金の約五パーセントの手数料が原告に納められた。右取引には、原告職員が立ち会い、数量、代金等を確認した。

原告は、このようにして原告に納入された手数料のうち七割をその財源として使用し、残りの三割が被告へ納入された。

そして、原告の職員や、有志により、他部落からの入山や盗伐がないよう厳重な監視を行うなど、本件山林の管理は原告が行った。

その間、経済や社会の変化に伴って立木の伐採が漸次減少していったものの、それでも、原告における林産物の総売上高は、昭和四一年五月から同年一〇月までの六か月間では、三七六五ドル二二セント、昭和四二年五月から同年一〇月まででは一万一四八九ドル四八セントに及び、原告区民による管理及び入会利用は、福地ダムの建設に伴い、入会利用が事実上不可能になる昭和四二年ころまで続いた。

(3) 入会権の存在

このように、原告は、琉球王府、旧藩時代から本件山林を入会利用してきており、本件山林が、前記統一事業によって原告から被告所有になった際に、被告が、原告の入会権の存在を認めたいわゆる条件付統一地であった。

また、仮に、本件山林が、前記杣山処分の際に被告に払い下げられたとしても、原告は、杣山の時代から、一貫して本件山林に立ち入って、共同で使用収益してきたものであるから、本件山林に対して共有の性質を有しない入会権(地役的入会権)を有していた。

3  ダム建設に伴う入会権の変化

(一) 福地ダムの建設

琉球水道公社は、昭和四二年ころから、福地川に福地ダムの建設を計画し、着工したが、本土復帰後の昭和四九年に国の手によって完成した。右福地ダムの建設により、別紙第一物件目録記載の山林(以下「本件第一山林」という。)は、湛水地域として水没し、別紙第二物件目録記載の山林(以下「本件第二山林」という。)は、その集水地域とされ、これにより、原告は、本件山林につき、従来のような植林、伐採などの入会利用が事実上不可能となった。

(二) 賃貸借契約の締結

昭和四五年三月二七日、被告と琉球水道公社との間で、福地ダム建設を目的として、本件第一及び第二山林について、昭和四二年五月一日から一〇年間(更新可能)賃貸する旨の賃貸借契約が締結された。そして、琉球水道公社から被告に支払われる賃料は、原告、被告間で、原告四割、被告六割の割合で配分することとされた。

その後、沖縄の本土復帰に伴い、琉球水道公社の権利義務を国が引き継いだ。

(三) 分収慣行の存在

前記のとおり、本件山林において、林産物税を原告七割、被告三割の割合で配分するなど、沖縄では、戦前から、入会山林からの収益は、村(行政機関)と区(部落)が分収するのが一般であった。

戦後、多くの入会山林が、米軍基地に使用するため接収されたが、その賃料(軍用地料)は、村(市・町)と区(部落)で、以下のような割合で分収された。

〈省略〉

(市町村) (分収割合)

金武町 町五 区五

宜野座村 村六 区四

恩納村 村六 区四

名護市 市六 区四

国頭村 村五 区五

(四) 契約利用形態への変化に伴う賃料分収権の成立

被告が、本件山林をダム用地として賃貸するに際し、その収益を、原告、被告間でどのように分収するかが問題となり、被告議会では、ダム対策特別委員会が設置され、検討された。

原告は、分収割合を、原告六、被告四の割合とすることを主張したが、結局、被告議会の多数決により、原告四、被告六の割合で分収することに決定され、原告もこれを了承した。

その結果、原告の入会権は、それまでの自ら入会地を使用するいわゆる古典的共同利用形態から、自ち入会地を使用せずに契約によって第三者に使用させ、その使用料の一部を受け取るいわゆる契約利用形態へと移行し、それに伴い、被告に対し、被告が賃貸借契約により賃借入(国)から受け取る賃料のうち、四割の配分を受ける権利(賃料分収権)を取得した。

4  被告の責任

(一) 本件第一山林について

(1) 被告は、昭和五四年三月一〇日及び同年四月三日、国に対し、本件第一山林を合計四億〇〇八〇万三八四〇円で売却したが、右売買は、その契約書において、土地上の質権、抵当権、先取特権その他の権利の消滅が明示されており、本件第一山林における原告の入会権の消滅が前提とされていた。

被告は、原告の同意を得ることなく、一方的に右売買契約を締結したものであり、かつ、売却後も、原告に対し、何ら適正な補償を行っていない。

右売却により、原告は、その時点から、賃料分収権に基づく賃料の配分を受けることができなくなったのであり、被告は、原告が有する前記入会権に基づく賃料分収権を不法に侵害した。

(2) 被告の右不法行為により原告が被った損害は、原告、被告間における従前の賃料配分割合を勘案すれば、被告が取得した売却代金の四割に当たる一億六〇三二万一五三六円と解するのが相当である。

(3) よって、原告は、被告に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、右金員及びこれに対する昭和五九年四月一七日付け訴えの変更申立書送達の日の翌日である同月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを認める。

(二) 本件第二山林について

(1) 被告は、原告に対し、本件第二山林については、前記賃料配分の合意に基づき、昭和四二年五月一日から昭和五五年三月三一日までの分の賃料の四割を支払っていた。

ところが、被告は、昭和五五年三月ころ、原告の同意を得ることなく、一方的に本件第二山林の賃料について、昭和五五年度(昭和五五年四月一日から昭和五六年三月三一日まで)分の原告への配分割合を、四割から三割へ減少させることを決定し、右決定に基づき、同年度分の賃料のうち三割しか原告に支払わなかった。

そして、被告は、その後も国から賃貸借契約に基づき賃料を受領しているにもかかわらず、昭和五六年度分以降は、原告に対し、全く賃料の配分をしなくなった。

なお、昭和五四年五月二日の国、沖縄県及び被告の合意により、国と被告との前記賃貸借契約は昭和五七年度をもって終了し、昭和五八年四月一日からは、被告は沖縄県に対し、本件第二山林を賃貸し、同県から賃料を受け取っている。

(2) 原告は、本件第二山林について、前記のとおり、入会権に基づく賃料分収権を有している。

(3) そして、原告は、右賃料分収権により、現時点において、被告に対し、以下の未払いの賃料の分収金を請求できる。

〈1〉 昭和五五年度分 三九四万円

〈2〉 昭和五六年度分 一六五二万円

〈3〉 昭和五七年度分 一七二七万円

〈4〉 昭和五八年度分 一七二七万円

合計 五五〇〇万円

(4) よって、原告は、被告に対し、入会権による賃料分収権に基づき、五五〇〇万円の支払い及びこれに対する昭和五九年四月一七日付け訴えの変更申立書送達の日の翌日である同月一八日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払い並びに本件第二山林につき、原告が共有の性質を有しない入会権を有することの確認を求める。

二  請求原因に対する答弁

1  請求原因1(一)の事実は不知。

2  同1(二)の事実は認める。

3  同2(一)(1)(2)の各事実は認める。

4  同2(二)(1)の事実のうち、本件山林を、川田村が中心となって管理保護してきたこと、明治四〇年ころに本件山林は国から川田村に払い下げられ、その後原告から被告の所有に移ったこと、昭和三九年ころからの入会山野の払下げに際し、原告区内の入会林野の払下げを受け得る者が原告区民に限られていたこと、本件山林の原告区民への払下げ中止の理由が、同区民の入会利用が不可能となるためであることは否認し、本件山林が杣山に当たることは不知。その余の事実は認める。

本件山林は、明治三九年の不要林存置処分の際に、川田村でなく、久志間切(当時)に払い下げられ、その後分村により被告の所有となったものである。したがって、本件山林が原告の所有になった経緯はなく、原告の主張するような公有林野整理、部落有林野統一事業により被告所有になったものではない。被告においては、右統一事業により被告村有に組み入れられた山林については、元の所有者である字(当時の村)に戻し、字有地となっている。

5  同2(二)(2)〈1〉の事実のうち、原告が樹木の伐採、草木の採取等で本件山林を利用していたこと、戦前、伐採した材木の売却代金の約五パーセントを林産物税という名目で原告に納入し、原告がその三割を被告に納入していたことは認め、部落の山の維持、管理は全て原告が当たり、被告が関与することはなかったことは否認する。その余の事実は不知。

原告は、被告の許可を受け、一定の料金を支払った上で、本件山林を利用していた。

6  同2(二)(2)〈2〉の事実のうち、戦後しばらくは戦前と同様に原告区民による入会利用が続いていたこと、材木等の売却代金の一部が被告に納入されていたことは認め、本件山林等の管理は原告が当たっていたこと、原告区民の入会利用が、福地ダム建設が始まり、入会利用が事実上不可能になる昭和四二年ころまで続いていたことは否認する。その余の事実は不知。

(本件山林の維持、管理に関する被告の主張)

明治四一年に制定された林野監守規程により、県内の町村に林野監守が設置され、公有林野の管理に当たった。林野監守は、県下五郡二七か村に三九人が置かれていた。

そして、久志村(分村前)においては、明治四〇年に公有林野経営規則が設けられ、施行された。その後、被告は、昭和三〇年に東村有林経営案を編成して、合理的管理経営に移行し、昭和三七年に被告村役場に林業課を設立して、造林、治山事業を積極的に推進し、他方、昭和三三年から昭和三九年にかけて、林野条例の整備、貸付け、払下げに関する条例の制定及び造林基金条例の整備等を行い、公有林野を農用地として払い下げ、また、残余の林野に対する直接の管理、経営の強化を図った。

原告区内の山林の払下げは、昭和三八年から昭和四六年までの間に行われ、原告区民の九〇パーセントの世帯が払下げを受けた。右払下げ事務は、原告区長が事務委託者として払下げ事務に関与したほかは、もっぱら被告の統制の下に行われ、払下げに関する決定権は被告が有しており、払下げに伴う売却代金は全額被告の収入とされた。

以上から明らかなように、被告は、戦前から本件山林を含む公有林野の維持管理を行っており、原告が、本件山林について行っていた山林利用は、入会権に基づくものではなく、被告当局が、原告区民だけでなく、村民の生活保護と山林の保護育成の目的を達成するために、被告の管理統制の下で、一定の料金を支払わせた上利用させていたもので、いわば行政の保護的措置に基づくものである。

7  同2日(二)は争う。

原告が、本件山林に対して有していたと主張する共有の性質を有しない入会権なるものの内容は、これらの公有山林に立ち入り、草刈りをしたり、薪としての枯れ技を採取したりする程度のものであり、かかる行為は、原告住民のみならず、その地域にある公有林野においては、その地域の住民の全てに等しく認められていたものである。

8  同3(一)の事実のうち、本件第二山林について立入りが不可能になった点は否認し、その余の事実は認める。

9  同3(二)の事実のうち、被告と琉球水道公社との間で賃貸借契約が締結されたこと、同公社から被告に支払われる賃料のうち、四割が原告に交付されたこと、琉球水道公社の権利義務を国が引き継いだことは認める。なお、被告から、原告に対し交付された右金員の性質は、行政補助金である。

10  同3(三)の事実は不知。分収慣行があるとの主張は争う。

各市町村における入会林野の生成過程及び利用形態は多様であり、これを一律に論じることはできない。

11  同3(四)の事実は不知。原告の有する入会権が、契約利用形態に移行し、原告が、賃料分収権を取得したとの主張は争う。

契約利用形態による入会権が認められるためには、入会集団と第三者との間に入会利用についての契約がなければならないところ、原告と被告あるいは国との間には、何らの契約も存しないのであるから、契約利用形態による入会権は認められない。

12  同4(一)(1)の事実のうち、国が被告から本件第一山林を買い受けたこと、契約書において入会権の消滅が明示されていること、被告から原告に対し、売却に関する金員の交付がないことは認め、その余の事実は否認する。被告が原告の入会権に基づく賃料分収権を不法に侵害したとの主張は争う。

仮に、原告が、入会権に基づく賃料分収権を有していたとしても、本件第一山林の売却により入会権が消滅するわけではなく、右売却行為をもって入会権を不法に侵害したということはできない。

また、右売却当時の被告村長である宮里松次は、本件第一山林について原告が賃料分収権を有するとの認識がなく、賃料の四割の金員は、原告に対する行政補助金であるとの認識しかなかったのであり、かつ、本件山林に対し、被告が管理していた実態や、原告の当時の入会利用の状況からすれば、専門的知識を有しない通常人である右被告村長が、原告が賃料分収権を有するとの認識がなかったことについて過失はなかった。

13  同4(一)(2)の損害額は争う。

14  同4(一)(3)は争う。

15  同4(二)(1)の事実のうち、被告が原告に対して、昭和四二年五月一日から昭和五五年三月三一日まで、国から受ける賃料の四割の金員を原告に対し支払っていたこと(ただし、その性質は前記のとおり行政補助金である。)、昭和五五年に右金員を賃料の四割から三割に減額したこと、原告に対し、昭和五六年度分以降の賃料から金員を交付していないこと、昭和五八年以降は沖縄県に対し本件第二山林を賃貸していることは認め、その余の事実は否認する。

16  同4(二)(2)は争う。

17  同4(二)(3)は争う。

18  同4(三)は争う。

三  被告の抗弁(入会権の消滅・放棄)

1  入会慣行の消滅による入会権の消滅

被告村民の生活様式の近代化、社会情勢の変化に伴い、村民の公有林野に対する利用は次第に減少し、昭和三四年ころには入会利用の事実はほとんど見られなくなった。

また、被告は、昭和三四年に東村公有林野貸付規則を制定し、公有林野の個別利用を推進し、昭和三八年に東村公有林野払下げに関する条例を制定し、一戸当たり二ヘクタールを限度として公有林野の払下げを行うなど、村民への公有林野の払下げを行い(前記のとおり、右払下げ事務はもっぱら被告の統制下で行われた。)、農地転換等の林野の高度利用政策事業を推進したことにより、村民の生活は、昭和四〇年ころまでに山依存の生活から農業中心の生活に完全に脱却するに至った。そして、昭和四二年一二月二三日から、被告においてもガス使用が開始され、各部落とも、所在公有林野を利用する必要はなくなり、その管理をしなくなった。

以上のような公有林野の利用形態の変化、所有関係の近代化、燃料革命等により、原告区民の公有林野に対する管理統制は次第になくなり、原告が本件山林につき有していた入会慣行は自然に消滅し、従来の入会慣行に代わって、自作農家による個別的土地利用形態へと移行した。

2  原告の同意又は放棄による入会権の消滅

本土復帰前に、琉球水道公社から、本件山林上に存在した立木を買い取る形で補償がなされており、原告は、その補償金として、八万〇二二六ドルを受領した。

したがって、この段階で、原告の同意又は放棄により、入会権は消滅した。

3  湛水による入会権の絶対的な消滅

本件第一山林については、ダム建設に伴う湛水により、入会利用が不可能となったのであるから、原告の主張する古典的利用形態による入会権は消滅した。

三  被告抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は否認する。

福地ダム建設直前まで入会慣行が存在し、本件山林より多くの林産物が生産されていたことは前記のとおりである。また、被告は、昭和三一年ころから、原告区域の公有林野を農耕地として貸付利用させるようになり、昭和三九年から公有林野の個人への払下げが行われたが、それらのいずれの手続も、実質的な審査を原告区長が行った上で、右区長を通じて被告に対して申請されており、どの地域を誰に払い下げるのかを実質的に決定したのは右区長であった。

2  抗弁2の事実のうち、補償金を受領したことは認めるが、入会権が同意又は放棄により消滅したとの主張は争う。

右補償金は、当時存在した立木の代金相当額にすぎず、将来成長する立木の補償は全く含まれていない。しかも右補償金は、琉球水道公社から支払われたものを、原告五割、被告五割の割合で配分したものである。したがって、右補償金は、入会権消滅の対価的性格を有するものではなく、右補償金の受領をもって、原告が、入会権の消滅に同意した、あるいは入会権を放棄したとみなすことはできない。

3  抗弁3の主張は争う。

被告の右主張は、古典的利用形態の入会権が、合意により契約利用形態へ転化したことを理解しないものであり、不当である。

第三  証拠

証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録に記載のとおり。

理由

第一  当事者

〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

一  原告

原告は、沖縄県国頭郡東村字川田に住所を有し、区民名簿に登録された者(区民)及び寄留届を受理された者をその構成員とし、区長をその代表者として、川田区運営規程に基づいて運営されるいわゆる権利能力なき社団であり、歴史的には、川田村をその前身とする。

なお、川田区運営規程(〔証拠略〕)は、従来原告において行われてきた旧慣を明文化したものであり(前文)、以下のような規程が定められている。

(1)  原告の区域は東村字川田とする(一条)。

(2)  原告区民(構成員)は、原告区民名簿に登録された者ないし寄留届を受理された者を構成員(区民)とし(三条)、区民は、区における権利を平等に有し、区の負担を分担する義務を負うが、区の有する不動産、入会権その他の一切の財産に関する権利、義務は、原告に本籍を有し、永住の意思のある者で、かつ、部落常会の承認を受けた場合に限り発生する(四条)。

(3)  管理機関として、〈1〉区民総会、〈2〉部落常会、〈3〉代議員会、〈4〉区長を設ける(六条)。

〈1〉 区民総会(七条)

満二〇歳以上の区民で構成され、必要に応じて区長が招集し、重要事項の審議決定をする。

〈2〉 部落常会(八ないし一六条)

区民の世帯主で構成し、定時会を年二回とし、臨時会は必要に応じて区長が招集する。

部落常会においては、予算、決算に関する事項(一三条一号)等のほか、区財産の取得及び処分の決定(同条六号)、区所有の不動産、入会権等の権利義務の資格認定(同条七号)等についての承認及び議決を行う。決議は、原則として、常会員の過半数が出席し、出席者の過半数で行うが、前記財産に関する事項及び入会権者資格に関する事項については、常会員の三分の二以上をもって行う(一四条)。なお、部落常会の議長は、区長が行う(一五条)。

〈3〉 代議員会(一七ないし二六条)

代議員会は、常会で選任された一五名と、選出された代議員一五名の計三〇名で構成され、必要に応じて区長が招集する。

代議員会においては、予算決算の承認(一八条一号)、区の事業計画の策定(同条二号)等を行うほか、部落地域内の公有林野の保護管理に関すること(同条三号)、部落有財産の保護管理に関すること(同条四号)、寄留届の受理に関すること(同条六号)等を扱い、部落常会と同じ議決方法で行う(一九条)。

〈4〉 区長(二七ないし二九条)

区長は、区を統括し、これを代表する機関であり(二七条)、常会員の選挙により選任される(二九条)。

区長は、区の行政事務を処理し(二八条一号)、事務の執行及び区民総会、常会、代議員会の決議事項の実施に当たる(同条三号)が、その事務には、区の財産及び備品の管理、保全(同条一号)、負担金、手数料、使用料等の徴収(同条三号)、夫役負担(同条四号)が含まれる。

二  被告

被告は、原告の所在地を行政区域内に持つ行政組織上の村であるが、大正一二年に、久志村から分離したものであり、昭和二三年七月二一日指令第二六号「市町村制」に基づく村(そん)として、琉球政府に引き継がれ、昭和四七年の本土復帰に伴って、地方自治法に基づく地方公共団体としての村(そん)として今日に至っている。

三  原告及び被告の沿革

ところで、沖縄では、古くは部落のことはシマと呼ばれていたが、琉球王府の末端行政機関として、いくつかのシマを区切った間切が存在した。一六七三年(以下、明治以前は西暦で表示する。)に、それまでの間切を整理して、恩納間切、大宜味間切、小禄間切、久志間切の四間切が設置された。川田村(むら)は、一六七三年ころ、名護間切から分割され、新設された久志間切に編入された後、一六九五年に一旦大宜味間切に属し、一七一九年に再び久志間切に属することとなった。

明治三一年勅令第三五二号沖縄間切島規程が、明治四〇年勅令第四六号沖縄県及び島嶼町村制がそれぞれ制定され、それまでの間切、島を単位とした地方制度が大きく改められ、右沖縄県及び島嶼町村制と同時に公布された勅令第四五号「沖縄県間切島並びに伊豆、小笠原名称区域変更」により、沖縄県の間切、島は村(そん)と改められ(一条)、間切、島内の村又は島は字とされた。この結果、旧来の久志間切は久志村となり、川田村は字川田となった。

そして、大正一二年、久志村から被告が分離し、戦後、琉球政府時代の市町村制に基づく村として、昭和四七年の本土復帰後は、地方自治法に基づく地方公共団体として今日に至っている。

第二  入会権の成立

一  〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

なお、当事者間に争いがない事実である旨及び認定に使用した主な証拠等を、各事実の末尾に記載することとする(以下同じ。)。

1  本件山林の性格

(一)琉球王府時代の沖縄の山林は、〈1〉個人の私有地の性格を有する仕明山野、請地山野、〈2〉間切・島・村が管理、保護し、共同に使用収益する間切山野、村山野、〈3〉官有林である杣山に大別された(争いがない。)。

(二)杣山は、歴史的には琉球王府の所有林に当たり、天然林が大半を占めていた。一八世紀ころの琉球王府における杣山の管理形態は、管理の徹底を図るため、山林を村単位で管理する杣山分割管理政策を取っており、久志間切のうち、平良、川田、宮城の三か村の近辺の杣山は、村ごとに分割し、村より一里以上離れたところは数村の共同管理としていた。

その一方で、琉球王府においても、山奉行所の設置(一六二八年)、地方在勤の山奉行の配置(一七三七年)、検査官の配置(五年間のみ)などにより杣山の保護管理を行った。

なお、被告村内では、川田村に五年間、検査官一名が置かれた後、平良村に山奉行一名が駐在した(〔証拠略〕)。その他、各間切番所に松山当、山当などの役人が置かれ、山林の保護管理の指導に当たった。

しかし、山林に対する直接の保護管理は、杣山分割管理政策の下で、地元部落の住民が、私費で総山当、山当などの役を置き、共同で管理、保護に当たっており、毎年多大の夫役を負担して杣山に植林を行い、その代償として、琉球王府の御用木、禁止木以外は、地元住民の定めた入山日において、自由に材木を伐採し、船材、建築材、砂糖樽板、製糖薪炭、家用薪炭等に利用した。そして、琉球王府が木材を必要とする場合には、手形を発行して上納させ、その代価を間切、島、村の負担する貢租から差し引いた(以上、争いがない事実及び鑑定の結果)。

(三) 明治五年に琉球藩が置かれ、明治一二年四月にいわゆる琉球処分により琉球藩が廃止され、沖縄県が設置されたが、旧慣温存政策の下で、本土において実施された地租改正、土地官民有区分等の一連の土地制度の改革は行われず、町村制も施行されず、民法の不動産に関する規定の適用もなかった。そして、明治三二年に公布された沖縄県土地整理法によって、明治三二年から明治三六年にかけて沖縄県の土地整理事業が行われた。これによって、間切山野及び村山野は、それぞれ間切、村の所有とされたが、同法一八条(『杣山、川床、堤防敷、道路敷及其余地其他民有ト認ムヘキ事実ナキモノハ総テ官有トス」)により、杣山は官有地とされた。しかし、これは、杣山の地盤所有権を決定しただけであって、その官有地上の入会権については、何ら消長をもたらすものではなかった(争いがない。)。

(四) 杣山が、官有地に編入されたことにより、地域住民による乱伐が進み、山林が荒廃したことから、国は、官有林を整理して、国有林経営に必要な山林とそうでない山林を明確にすることとし、明治三九年に沖縄県杣山特別処分規則を公布し、杣山のうち、不要存置林について売り払う、いわゆる杣山処分を実施した。その後、大正四年から昭和一一年にかけて、公有林野整理、部落有林野統一事業が行われ、部落有の林野が町村有に統一された(争いがない。)。

(五) 本件山林は、杣山として形成された土地であり(右認定に反する証拠はない。)、琉球王府の所有であったが、明治三二年の沖縄土地整理法により官有地となった。そして、杣山処分によって、明治三九年から明治四二年までの間に、地元間切である久志村(当時)に払い下げられた(鑑定の結果)。

2  原告の本件山林の使用、管理状況

(一) 戦前

原告は、本件山林を含む、字川田周辺の山林を禁伐区域と伐採区域とに分け、原告区民は、伐採区域については自由に立ち入ることができたが、それ以外の地域の住民の立入りを禁じていた(争いがない。)。

そして、区長が、原告区民を動員して、自然木について、雑草、枯れ枝等を切り取り、育ちやすいように管理する作業(撫育造林)等を行った。

また、専任の山係を置いて、山林の監視、管理に当たらせるほか、盗伐を防ぐため、約一〇名の原告区民の有志が仮山隊を作って山林を巡視し、盗伐者を発見した場合は、鋸、なた、斧などの山道具を取り上げたり、同一人物が再度盗伐したのを発見された場合には、原告事務所で厳しく注意したり、罰金を課すなどした。

そして、原告区民は、山林に立ち入り、薪や建築資材を採取、伐採し、大正七年以降は、原告に置かれた共同店を通じて売却して生活しており、区民の収入の大半は山林からの所得に依存していた(以上、〔証拠略〕)。

そして、原告は、売却代金の五パーセントを林産物税という名目で徴収し、そのうち三割を被告に納入し、その余の七割を原告が取得した(争いがない。)。

(二) 戦後

戦災による住宅資材の需要増と、制度崩壊による乱伐により、原告としても、一時的に戦前以上に林業による収入が増加した(この傾向は、被告全体においても窺うことができる。即ち、村民の所得調査によれば、昭和二八年における林業所得は戦前の一・五倍となっており、その収入全体に占める割合は四四パーセントで、農業所得の二七パーセントを上回っている(〔証拠略〕)。)。

そして、被告では、昭和二八年ころから、パイン、すももの栽培が開始され、原告においても、パイン栽培が開始されたことにより、原告区民の生活も、山林一辺倒から徐々に農業に移り変わったが、依然として、山林からの薪や建築資材の採取、伐採を行った(〔証拠略〕)。

原告の財政及び原告区民の収入は、以前として山林収入に頼っており、例えば、川田共同組合の、共同店の林産物の総売上高は、本件ダム工事が着工される直前の昭和四一年五月から同年一〇月までの六か月間で三七六五ドル一三セント、昭和四二年五月から同年一〇月までの六か月間で一万一四八九ドル四八セントであり、共同店が取り扱った林産物(共同店が取り扱わない林産物も、相当程度存していた。)だけでも相当多額にのぼった(〔証拠略〕)。

原告は、戦後も山林の維持、管理を行っていたが、戦前のように専任の山係を置かず、原告の会計が山係を兼任するなど、戦前ほど徹底した管理はしなくなった。しかし、原告区民以外の者が山林に入ることを禁止するという慣習はなお存在しており、盗材が発見されれば、直ちに区長に通報し、区長が盗材者の所属する区の区長に対し、厳重な抗議をし、盗材された林産物を取り戻すなどした。そして、山林を、禁伐区域と伐採区域に分け、前者からの伐採を禁じ、造林作業については、区民を四班に分け、各班ごとに、出役の日や、世帯ごとの出役人数、造林の場所や範囲、始業、終業の時刻、出役できなかった場合の罰金等、常会の取決めに従って行われた(〔証拠略〕)。

なお、昭和二二年から昭和四二年までに、原告において開かれた部落常会、評議員会等の各議事録によれば、各会で以下の事項が協議され、あるいは決定された(〔証拠略〕)。

昭和二七年

松種子の採取の割当(常会)、造林事業、伐採区域の厳守

(区長会指導事項)

昭和二九年

造林予定地の選定(評議委員会)、公有林禁伐区域保護取締り(部落常会)、公有林の開拓(評議委員会、部落常会)

昭和三〇年

官有林の購入、トンバ道付近の開墾地の開墾許可、山林保護取締り(以上評議委員会、部落常会)、公有林保護取締り、天然造林(以上部落常会)

昭和三一年

フガッタ山の取締り、開墾地、荒蕪地の申請、禁伐区域の取締り、公有林の払下げ、(以上部落常会)、公有林内における木炭の払下げ、官有林買受け(以上評議員会、部落常会)

昭和三二年

国有林払下げ、公有林取締り(以上評議員会)、松の播種造林(以上評議員会、部落常会)

昭和三三年

山地開拓予定地選定、山林保護(以上評議員会)、造林作業(以上評議員会、部落常会)

昭和三五年

公有林野開墾許可、村公有林借受申請(以上代議員会)、開墾地申請及び山地開発(部落常会)

昭和三六年

開墾地調査、造林地払下げ、開墾許可(代議員会)、造林

地内の開墾(部落常会)

昭和三八年

土地の譲渡(役員会)

昭和四一年

造林日程(役員会、部落常会)

昭和四二年

造林人夫の整理、公有地払下げ(以上役員会、部落常会)

以上のとおり、伐採区域と禁伐区域の決定、盗伐の取締り等の山林の管理取締りに関する事項、造林作業のための出役の決定等の山林の保護に関する事項、開墾地の協議及び個別許可、公有林野の貸付け、払下げ等の入会林野の利用、処分に関する事項等は、部落常会等の原告の機関において話し合われた。

3  被告の本件山林に対する保護、管理状況

(一) 戦前

明治一二年の廃藩置県により、林野の監督権は県令(知事)に移ったが、旧慣をそのまま島司、役所長に委任し職務を執行させた。更に、明治一七年には船改筆者、山方筆者を復活させて杣山処分(明治三九年)まで林野の監督を補佐させた。久志間切においては、一時期川田村に山林取締吏員の結所が置かれたが、明治二三年に同じ久志間切内の瀬高村に移転された(〔証拠略〕)。

明治三九年の杣山処分により、本件山林を含む多大の面積の山林が久志村所有となり、明治四一年制定の林野監守規程により、久志村においても林野監守が配置された。林野監守は、斫伐・造林の施工、立木の伐採、造林・運輸の取締り、造林樹苗圃・保安林・盗伐・侵墾の取締り、災害、虫害・その他被害の防備、林産製造物の奨励等をその職務とし、知事の認可を得て郡長・島司がこれを定めた(〔証拠略〕)。

(二) 戦後

戦後の公有林野の管理は、戦災による住宅の消滅、極度の食料難、各種林野関係資料の消失等の戦後の混乱により、林野管理が行われなくなり、被告村民による乱伐等が続き、村内の公有林野は荒廃した。

右状況を打開するため、昭和二八年、琉球政府により民有林野経営案規則が公布され、昭和三〇年、被告において、東村公有林野経営案が制定された。同案は、造林、開墾、禁伐保護区域の設定のほか、村に林野係一名、各字に林野保護員一名を置き、林野の管理、経営、保護取締りに当たらせることを内容としていた。そして、右経営案を受けて、昭和三四年に東村林野条例(〔証拠略〕)が制定された。右条例において、造林事業等の労務の提供は、村長の計画に基づき、各担当林野区の区長において協力実施させること(同条例七条)が定められ、林野保護取締りのため、村林業係において巡視をするほか、各担当林野区に、月二回以上巡視させることとし(一九条)、規程どおりに巡視が実施された。昭和三七年には、東村課設置条例(〔証拠略〕)によって、林業課が設置され(二条)、担当職員も増員された。

また、右林野条例に基づき、昭和四〇年ころから、各字に造林組合が組織され、被告村長との間で分収造林契約を締結して、造林を積極的に行うほか、公有林野の近代的利用を図るため、昭和三四年に東村公有林野貸付規則(〔証拠略〕)を制定し、公有林野の週別的利用を推進し、更に、東村公有林野払下に関する条例(〔証拠略〕)、東村公有林野払下条例(〔証拠略〕)、東村公有林野払下規則(〔証拠略〕)を制定し、公有林野を個別に払い下げることで、より一層の土地の有効利用の推進を図った。

原告区域内の入会山林については、本件山林を除いて、全て原告区民に払い下げられた。本件山林もまた、当初払い下げられる予定であったが、ダム用地となることが明らかになったため、払下げは行われなかった。

二  検討

以上の事実をもとに、本件山林について、原告に入会権が成立していたかについて検討する。

入会権とは、部落又は集落(村落共同体)の一定の地域に居住する住民中の権利者集団(いわゆる実在的総合人たる入会集団)が、山林原野等を総有的に支配し、木材、草等を伐採採取するなどして利用する権利である。

原告は、前記のとおり、原告区域に居住し区民名簿に登緑された者及び寄留届を受理された者により構成される団体であり、原告区域に居住することが区民であることの要件となっており、しかも、入会権等の財産権に関する権利義務は、永住の意思のある者で、かつ、部落常会の承認を得た場合に限り発生するとされており、部落常会で認めた者に限り入会権者の地位を取得し、原告区域内の公有林野の保護取締り、造林活動等は、部落常会等の原告の機関において協議、議決し、区長の指揮の下に行った。

そして、本件山林を含む東村字川田の山林は、琉球王府の時代から杣山として、琉球王府の指示、監督により、地元部落である川田村が、直接保護管理に当たり、材木、薪を伐採採取してきており、明治時代以後も、川田村の地位を承継した原告の統制の下に、監督、造林が行われ、原告区民の建築資材、薪の採取などの山林利用が、福地ダム建設直前まで行われた。

以上の事実からすれば、原告は、入会集団として、本件山林に管理統制を及ぼし、長期間継続して入会利用してきたということができ、不件山林について、共有の性質を有しない入会権を取得していたことが認められる。

被告は、実際に本件山林を保護管理していたのは、被告であり、原告が本件山林に管理統制を及ぼしていなかった旨主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、琉球王府においては、杣山分割管理政策により、川田村による管理に服していたこと、明治時代から戦前までは、原告において、専任の山係を置き、区民が山林を巡視するなどして、直接の管理に当たっていたことからすれば、琉球王府あるいは久志間切(村)の本件山林に対する監督は、間接的なものにとどまり、本件山林に対する直接の保護、管理は、原告が行っていたといわなければならない。

確かに、戦後、荒廃した山林を復元するため、昭和三〇年ころから、被告の主導により、公有林野の取締りを強化し、土地の有効利用のための公有林野の貸付けや払下げを推進してきたことが認められ、相対的に、公有林野に対する原告の統制は弱まっていたとみることもできる。

しかしながら、公有林野の取締りについても、東村林野条例(乙四号証の 二)一九条によれば、林野保護取締りのために、村林業係をおいても巡視をするほか、各担当林野区に月二回以上巡視せしめるものとするとして、各区の協力を前提としており、また、実際に、原告の機関である部落常会や代議員会等で、山林の保護取締りについて協議されている。また、公有林野の貸付け、払下げについて、原告区域の林野について払下げを希望する者は、被告村長あての払下申請書を原告に提出させ、原告において審査した上で、区長の認印を捺印して村長へ提出するという形式を採っており、(〔証拠略〕)、払下げの有資格者は、規定上は、原告区民に限られていなかったものの、実際に原告区域の払下げを受けたのは、全て原告区民であったことからしても、払下げの決定権限は被告にあったとはいえ、払下げの決定には原告も相当程度関与していたことが認められる。

したがって、戦後においてもなお、原告の、本件山林を含む公有林野に対する管理統制は、存在していたといえるのであり、被告の右主張は、採用することができない。

第三  ダム建設に伴う入会権の変容

一  〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

1  琉球水道公社は、昭和四二年ころから、福地川に福地ダムの建設を計画し、着工したが、本土復帰後の昭和四九年に国の手によって完成した。右福地ダムの建設により、本件第一山林は、湛水地域として水没し、本件第二山林は、その集水地域とされた(争いがない。)。

これによって、原告は、本件山林につき、従来のような植林、伐採などの入会利用が事実上不可能となった。

2  ところで、右福地ダムの建設が計画された際、原告と被告は、東村ダム対策特別委員会を作り、ダム建設に伴う補償等について話し合った。その結果、ダム建設のために本件山林を琉球水道公社に賃貸することとし、事実上原告が本件山林を利用できなくなることの補償として、右公社から受け取る賃料を原告、被告間で配分することとした。そして、右委員会において、他村における公有林野の軍用地料等による収入を、村と区がどのような割合で配分しているかを調査した(〔証拠略〕)。

なお、右委員会において、本件山林上に当時存在していた立木、竹等の補償についても話し合われ、立木、竹については、原告、被告間で補償金を折半することとした。

そして、被告の昭和四四年第七〇回定例議会において、本件山林にかかる賃料の配分比率を、原告、被告間で四対六とすることが議決された(〔証拠略〕)。原告としては、当初、右配分割合を、原告六、被告四とすることを希望していたので、右議会の決定には不満があったが、結局これに従うこととした。

3  右議決を受けて、昭和四五年三月二七日、被告と琉球水道公社との間で、本件山林について、福地ダム建設を目的として、被告が同公社に対し、昭和四二年五月一日から一〇年間(更新可能)賃貸する旨の賃貸借契約が締結され、その後、沖縄の本土復帰に伴い、琉球水道公社の権利義務を国が引き継いだ(争いがない。)。

4  琉球水道公社から被告に対して支払われる賃料の配分は、本件第一山林については国に売却されるまで、本件第二山林については昭和五四年度分まで、被告から原告に対し、適正に支払われた(争いがない。)が、その名目は、行政補助金とされた(〔証拠略〕)。

5  被告は、昭和五四年三月一〇日及び同年四月三日、国に対し、本件第一山林を四億〇〇八〇万三八四〇円で売却した。右売買は、その契約書において、土地上の質権、抵当権、先取特権その他の権利の消滅が明示されており、本件第一山林における原告の入会権の消滅が前提とされていた。ところが、原告は、右売却に際し、入会権を消滅させることについて同意を与えておらず(弁論の全趣旨)、また、被告から、原告に対し、右売却代金を配分することはなかった(争いがない。)。

6  被告は、原告に対し、本件第二山林については、賃料配分の合意に基づき、昭和四二年五月一日から昭和五五年三月三一日までの分の賃料の四割を支払っていた。ところが、昭和五五年三月一四日から同月二五日まで開かれた第一四三回被告議会において、当時の被告村長宮里松次から、被告の財政難を理由に、本件第二山林についての賃料の配分割合が原告四割、被告六割のところ、原告三割、被告七割として被告の財政の合理化、健全化を図ることが提案され、原告選出の議員二名の反対を押し切って、同議会において決議された(鑑定の結果、弁論の全趣旨)。

そして、昭和五五年度分の賃料については、その三割が原告に支払われたにとどまり、更に、昭和五六年度分以降については、被告から原告に対し、賃料の配分が全く行われなくなった(争いがない。)。

7  なお、昭和五八年四月一日からは、本件第二山林の賃借入が、国から沖縄県に代わり、沖縄県と被告との間で賃貸借契約が締結された(争いがない。)。

二  検討

1  原告に配分された賃料の性質

入会権においては、林野に立ち入り、草刈りや薪を採るいわゆる古典的共同利用形態のほかに、入会地を第三者に契約によって使用させ、使用料を受け取るいわゆる契約利用形態等がある。

本件では、前記認定のとおり、原告において、福地ダム建設直前まで、本件山林について共有の性質を有しない入会権を有していたのであり、右入会権に基づいて、材木、薪等を伐採、利用していたものである。したがって、福地ダム建設により、原告が、事実上本件山林に入会利用できなくなり、原告が相当程度の損害を被ることは、被告においても当然に認識しており、そうであるからこそ、被告も、賃料の配分割合については争いがあったものの、賃料のうち一定の割合を原告が受領すること自体については、原告の当然の権利として認めていたのである。

したがって、このような経過で原告に交付された賃料の配分は、名目上は行政補助金であっても、実質的には、事実上入会権を行使できなくなったことに対する補償、即ち入会権の対価的性質を有するものと解することができる。

そうであれば、所有者である被告が、本件第一山林を、国に対して賃貸し、国から受領する賃料のうちの一定割合を、原告に対し配分する場合、原告の右権利は、まさに、契約利用形態としての入会権の一形態ということができる。

したがって、この時点で、原告の入会権は、賃料分収権という債権的性格に変容して存続したということができる。

2  本件第一山林の売却による不法行為の成立

(一) 前記のとおり、被告は、昭和五四年三月一〇日及び同年四月三日、国に対し、本件第一山林を売却したが、右売却により、右山林に関する被告と国との賃貸借契約は消滅し、これにより右賃料の配分を受けるという原告の入会権の基礎が消滅した。即ち、被告は、国から売買代金を受領したものの、将来にわたって賃料を受領することは不可能となり、必然的に、原告も、賃料分収権に基づく賃料の配分を取得できなくなった。

このように、被告が、入会権等土地上に存する権利が消滅することを前提として本件第一山林を売却すれば、原告の有する賃料分収権は、それに伴って消滅するのであるから(この点、被告は、仮に原告が入会権を有していたとすれば、入会権は物権であるから、所有者が代わっても、当然には消滅しない旨主張するが、本件のように、入会権の内容が、山林の入会利用を伴った古典的な共同利用形態から、債権的性格の強い賃料分収権に変容している場合は、売買契約当事者間で特に合意がない限り、当然には、新所有者が、入会権の負担を承継しないものと解する。)、被告としては、事前に原告の同意を得ることが必要であり、その上で、入会権が消滅することの対価として、売買代金の一部を原告に支払う義務があるというべきである。

しかしながら、当時の被告村長である宮里松次は、原告の入会権に基づく賃料分収権の消滅等について、原告や国と事前に十分協議し、原告の同意を得ることなく、本件第一山林を国に売却し、これにより、原告は、その意思に反して、入会権に基づく賃料分収権を喪失した。

以上からすれば、原告の有する入会権に基づく賃料分収権が被告により不法に侵害されたこととなり、被告は、原告に対し、国家賠償法一条に基づき、不法行為による損害賠償の責を負うといわなければならない。

(二) 被告は、原告に対し、行政補助金という名目で分収金を交付していたのであり、法律の専門家でない被告村長宮里は、当時原告が入会権に基づく賃料分収権を有するという認識はなく、また、そのことに過失はない旨主張する。

しかしながら、宮里は、大正七年に出生後、昭和一六年から昭和三〇年までの期間を除いて、被告村字平良に居住し、昭和三二年から昭和三三年まで平良区の区長になっていること(〔証拠略〕)、原告が、古来、本件第一山林を入会利用してきたことは十分知悉しており、昭和四〇年においてもなお、原告の入会利用による林産物の生産があることを認識していたこと(同証言)からすれば、原告が、被告から交付を受けていた金員は、単なる行政補助金ではなく、入会権の対価的性格を有するもので、原告の同意なく、一方的に消滅、変更させることはできない性質のものであることは、当然認識しており、また認識すべきであったといえる。したがって被告の主張は採用できない。

(三) そして、原告の被った損害額は、被告、国間の売買代金額が、賃貸借により取得する将来の賃料相当額と類似性を有すること、それまでの分収割合が、原告、被告間で四対六であったこと等を考慮すれば、右売却代金の四割に相当するというべきである。そうすれば、損害額は、売買代金四億〇〇八〇万三八四〇円の四割に相当する一億六〇三二万一五三六円と解される。

(四) したがって、被告は、原告に対し、右一億六〇三二万一五三六円及びこれに対する昭和五九年四月一七日付け訴えの変更申立書送達の翌日である昭和五九年四月一八日から支払済みまで、年五分の割合による遅延損害金の支払いをしなければならない。

3  本件第二山林について

前記認定のとおり、原告は、本件第二山林について、共有の性質を有しない入会権に基づく賃料分収権を有し、被告において、その存在を争っているので、入会権の存在確認の利益が認められる。

また、被告は、前記のとおり、原告の同意を得ることなく、一方的に原告の取得すべき賃料の分収割合を変更し、更には、全く支払いをしなくなったのであるから、原告の前記請求の原因4(二)(4)記載のとおり、昭和五五年から昭和五八年までの賃料分収金が未払いであるといわねばならず(金額については争いがない。なお、昭和五七年度をもって、被告、国間の賃貸借契約は終了し、昭和五八年度は被告、沖縄県間で本件第二山林について賃貸借契約が締結されている(〔証拠略〕。)、右合計五五〇〇万円及びこれに対する前記訴えの変更申立書送達の翌日である昭和五九年四月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いをしなければならない。

4  抗弁について

(一) 入会慣行の消滅(抗弁1)について

被告は、農業転換による山林依存生活からの脱却や、ガス使用により薪等の採取の必要性が減少したこと、山林の払下げ等による山林の個別利用の増加等により、福地ダム建設以前に、既に原告の本件山林に対する入会慣行が消滅していた旨主張する。

しかしながら、原告の昭和四一年及び昭和四二年の役員会、部落常会において、造林日程、出役等についての協議がされていること(〔証拠略〕)、前記認定のとおり、昭和四一、二年ころにおいても、相当多額の林産物を原告の共同店が取り扱っていることからすれば、本件ダム開始直前の昭和四〇年ころにおいても、原告の保護、管理の下に、区民の本件山林に対する入会利用が行われていた事実が認められる。

また、原告区域内の公有林野の払下げについては、前記認定のとおり、原告において、払下げ希望者を審査した上で、区長の認印を捺印して村長へ提出しており、実際に原告区域の払下げを受けたのは、全て原告区民であったことからすれば、払い下げられた山林の利用についても、原告は事実上影響力を行使し得るのであり、原告における統制が依然及んでいるものと解される。

したがって、被告の右主張は採用できない。

(二) 原告の同意又は放棄による入会権の消滅(抗弁2)について

被告は、琉球水道公社との間の賃貸借契約締結当時、本件山林上に存在した立木等の補償金として交付された金員のうちの八万〇二二六ドルを、原告が受領していることから、入会権は、原告の同意又は放棄により消滅していた旨主張する。

しかしながら、右補償金は、原告が五割、被告が五割の割合で配分していることからしても、当時現存した立木等の補償であり、将来にわたって入会権が消滅することの対価的性質を有するものでないことが認められ、右補償金の交付をもって、入会権そのものの消滅の同意あるいは入会権の放棄と認定することはできない。その他、原告が入会権の消滅に同意した事実又は入会権を放棄した事実を認めるに足りる証拠はない。

(三) 水没による入会権の絶対的消滅(抗弁3)について

前記のとおり、原告の入会権が、それまでの古典的共同利用形態から契約利用形態に変容し、具体的には賃料分収権という形に変わって存在しているのであるから、被告の主張は採用できない。

第四  結論

以上から、原告の主張は理由があるのでこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用し、仮執行免脱宣言は相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 木村元昭 裁判官 生島恭子 村越一浩)

物件目録一、二〔略〕

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
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